2019年9月20日 (金)

足元を見られる

先日とあるコンサートの終了後、迎えの車を待っていると中年の女性客が近寄ってきて「質問して良いですか」と訊かれた。

「ジャズピアノを弾く方は右のペダルを踏む時、かかとを床につけないで足を浮かせて踏むのですか?」

実はこのことで数年前から右足の股関節が痛く悩んでいるところだった。

私は生まれて間もなく右足が小児麻痺にかかり手術を受けた。その後遺症で右足親指が不自由でかかとを床につけて踏むことは出来ないのである。

長年その状態でピアノを弾いてきたことで股関節が悲鳴を上げたのかもしれない・・・・・という話をお客さんには説明は出来ないので「単なる足癖です」とお茶を濁しておいた。

そんな訳で最近はピアノの椅子を目いっぱい高くして右足をぶらぶらさせて足の負担を軽くしてペダルを踏むようにしている。

この事によって鍵盤の位置が下になるのでタッチの上では困ったことであります。(エロル ガーナーじゃあるまいし)

しかし足元まで見られているとはビックリ・・・・・と日記には書いておこう。

2019年6月25日 (火)

歌の伴奏

考えてみると40年以上前からプロの歌手はともかく歌の生徒の伴奏を多くしてきた。

最初は曲も知らず、転調も出来ず、生徒を待たせて大急ぎでコードを移調して伴奏する日々だった。

生徒の覚えてくるメロディーは楽譜を見ずにレコードを聴いて覚えてくることが多い。

しかし完璧なコピーではなくアバウトに覚えて来るので伴奏と合わなくなる。(こういう状態を勘違い平行棒と呼んでおります)

やはり原曲の譜割りや音程を分かっていなければその先はないと説いてきた。

アマチュアの人は楽しめれば良いという事でそこまで掘り下げて歌いたくもないのかもしれない。

まあ、どうあれ私はスタンダード大好き人間なので生徒の伴奏をしてるその一瞬一瞬もホントの美しいメロディーを心で歌いながら伴奏してるのであります。

歌も演奏も出した音は戻ってこない。だからいつどこでも悔いなく音を出したいもんだ。

2019年6月24日 (月)

スタンダード曲に思うこと

新カテゴリー「音楽の話」を追加。ブログに音楽の事を書くことはほとんどなかったのですが最近ちょっと書き残したい気持ちが湧いてきました。(いつまで続くかわかりませんが)

さて、本題に入りますが、クラシックが作曲家主体の音楽であるならばジャズは演奏家主体の音楽なのでスタンダード曲を取り上げる際にもミュージシャンの自由な解釈によって作りかえて演奏される。

しかし取り上げられる古くは1930年代から現代に至るスタンダード曲も元はミュージカルや映画等の主題歌や挿入歌がほとんどでその作詞家、作曲家が存在するわけだ。

自由な解釈というと時には主に原曲のコード進行を付け直すこともある。

だが作曲者が作った原曲の構造や雰囲気も知らずに変えるというのはどうも気が引けるのだ。

あるミュージシャンの演奏でヒットした曲があるとそれをオリジナルと捉えてそこから又新たな解釈で演奏するなんてことも多いと思う。

最近はこのあるミュージシャンの演奏したスタイルをコピーした曲集が重宝されて皆それをベースにセッションしたりする光景を目にする。

ジャズはアドリブが重要なため原曲のもつ和音進行よりもアドリブしやすいものにすることが多々ある。

ときにはアドリブ主体のコードに変更したためいつの間にかメロディーまでも変わって認識されてる曲もある。

クラシックの作曲を学ぶ場合、多くの名曲のアナライズをするがジャズで取り上げる曲の多くも3段譜と言われる最上段がメロディーと歌詞、2段と3段がピアノの高音部と低音部で書かれた楽譜から学ぶことは多い。(アメリカ版シート譜のほとんどは3段譜)

ジャズというとメロディーとコードだけでやるもんだと思ってる人が多いが音楽ってそんな浅いもんじゃない。クラシックの歌曲集などでもメロディーと伴奏形を見てみると綿密に計算されて書かれているのが分かる。

逆に言うとクラシックのピアノ曲、歌曲などの譜面を分析してコードを付けてみると学ぶ事や応用できる事も多いのであります。(時にはアドリブ・フレーズのヒントも)

2019年5月29日 (水)

平成の終わりとともに

母も95歳の生涯を閉じた。

3月27日に兄から電話があり入院中の母の様態が良くないとのこと。(誤嚥性肺炎を起こし入院中だった)

翌28日昼の予定をキャンセルしてもらって私の家族全員で立川の病院へ会いに行った。

看護師さんの話では午前中は反応も良かったらしいが我々が行ったときはあまりなかった。

この時母の手を握ったのが最後となったのでした。

2019_3_28

さらに翌29日の深夜1時すぎ(30日)病院からの連絡で脈拍が落ちてきてるとのこと。

タクシーを飛ばして立川へ向かったが着いた頃にはもう脈はなかった。

4月2日兄の自宅にて身内だけで葬式をした。父が亡くなって15年、母も愛する父のもとへ旅立った。

2019_4_2

母は大正12年関東大震災の10日程前の8月20日に東京本所で生まれた。

この時私の祖父と祖母は生き別れになり祖母はまだ生まれたばかりの母を連れて何日もかかって故郷の新潟まで戻ったと聞いている。

どうやら祖父母は駆け落ちして東京に住み、母が生まれたようだ。今回母の戸籍をさかのぼっても祖父の名前は出てこなかった。

その後実家で暮らした母が小学生の頃になって祖母は私の知る祖父と一緒になった。したがって私の血のつながった母方の祖父は知らないのだ。

近頃、自分の(血のつながった)子を殺す親や逆に親を殺す子のニュースを良く目にするが「血のつながり」とは一体何なんでしょうか。

私は男三人兄弟の末っ子ですが二番目の兄は私が生まれて間もなく胆管がんで(5歳で)亡くなりました。

そして私も右足がワクチンがまだ出来てなかった小児麻痺(ポリオ)にかかり手術を受けました。

手術の甲斐あって普通の小学校に入ることが出来、入学式の日に泣いて喜んでくれた母の顔は今も忘れられない。

母にとって自分の生んだ子が立て続けに小児がんや小児麻痺になったら気が狂いそうになっただろうに気丈に兄と私を育ててくれことに感謝してもしきれない思いだ。

昔から母は「私たちは先にいなくなるけど残った二人の兄弟だけは仲良くしてね。ただそれだけが願いだ」と言ってた。そんな親の気持ちをひしひしと感じる今日この頃です・・・・・・・と日記には書いておこう。

2018年11月 4日 (日)

多かれ少なかれ

歳と共に誰だって物忘れは増えるものだ。

昨日の記憶が薄れてきた家内、場所の記憶も薄れている母、日本語の単語が出てこない私。Img_01931

毎度おなじみ我が家で咲いた花を母の部屋に飾った。

Img_0183
母のバッグの中からしわくちゃになった看護学校の卒業証書が出てきた。(昭和16年は太平洋戦争が始まった年)

Img_0182_2
母の生まれた大正12年の8月20日から12日後の9月1日関東大震災は起こった!そして母の両親は生き別れになり私の祖父は行方不明に。

大正、昭和、平成と生きた母は現在95歳、来年96歳の誕生日は新元号で迎える・・・と日記には書いておこう。

2018年4月30日 (月)

誕生日といえば

この日に生んでくれた母に感謝を伝えに行くのが恒例。

母も94歳、14年前に父が亡くなったときには「私もすぐお父さんのところに行くわ」と言ってたわりには大病もせず元気。

小さなバースデー・ケーキを買って母のもとへ。もちろんケーキは私のためではなく母への感謝のしるし。母、家内、私、3人で美味しく頂いた。

4_302_2
今日も家内が摘んでくれた我が家で咲いた白いバラたちを部屋に飾った。

殺風景な母の部屋に花を飾ると母もとても癒されてるようだ。

4_301_2
あと何度こうやって母と誕生日を祝えるか分からないが私も死ぬまで生きよう・・・・と日記には書いておこう。

2018年2月 8日 (木)

あれから40年

大好きな綾小路きみまろさんのフレーズだが今年の7月29日で私たちも入籍40年。

結婚25年が銀婚式だったので今回40年目を調べたらルビー婚だった。

ルビーなんて買うお金もないのでルビーという美しいスタンダード曲をレパートリーに入れようとコードチェンジを検討中だ。

40年間家内と出かけるときはいつも腕を組んで歩いてきたが最近気がつくと手をつないで歩いてることが多くなった。

もうちょっとすると気がついたらおんぶしてたりして(笑)・・・・・・と日記には書いておこう。

2b

2018年2月 7日 (水)

自虐日記

Hand1_2ジャズらしき事を始めた20代の頃、先輩に「お前、リズムさえ良ければ・・・」と言われた。

先日、ボーカル生徒用のピアノ伴奏を録音中にメトロノームのクリックが遅くなったり速くなったりする現象が起きた。

もちろん私の感覚がおかしい訳だが気が狂いそうだった。

更に翌日のライブではドラマーが分かりやすく4拍子の2拍4拍をハイハットで踏んでくれてるにも拘らずその2拍4拍がどうやっても1拍3拍に聞こえてきて立ち直れなくなってしまった。

生徒にはメトロノームを2拍4拍に感じて4拍子を作れなどと言ってきた私だが絶望的だ。

オンビートの日本人の血が騒ぎ出したのかもしれない。

またブルースと循環に始まりブルースと循環で終わるのがジャズみたいな事を昔聞いたことがあるが恥ずかしながらブルースと循環は大の苦手だ。

今更だがアフタービートもダメ、ブルースも循環もダメならジャズは諦めるしかないな(涙)・・・・と日記には書いておこう。

2018年1月30日 (火)

この地に住んで20年。

2018_1_22_2
写真中央に見える青い一軒家の2軒手前にあった家に越してきたのが平成10年だが現在は駐車場になってる。

 

1月22日に降った雪で都会のど真ん中に広大な雪原ができた。 かつて、ここにはロッテの本社、工場があった。

 

工場は高い塀に囲まれていて工場の上には電車からでも見えるほどの大きな看板があった。

 

うちを訪ねる人へ「ロッテの看板のチューインガムの『チュ』の下が我が家です」と説明すると皆迷わずたどり着いたのでした。

 

昭和30年代にロッテ製品のシールを集めて抽選に応募したとき、宛先が百人町だったのを覚えている。

 

この工場跡地にロッテが何を作ろうとしているのかは不明だが場合によっては環境が大きく変化する可能性があるので不安だ・・・・・・と日記には書いておこう。

2017年12月21日 (木)

今日は父の命日

2003年12月21日の朝、父は81歳で旅立った。あれから14年。悲しんでいた母も94歳になり、先日も会いにいったら「お父さんはちょっと出かけていて外で酒でも飲んでるみたい」なんて言ってた。

また母の頭の中には今の私と子供の頃の私の違う人間がいるようで話しているとある意味面白い。ゲラゲラ笑って聞くしかない。

今日は父に捧げた曲「最後の水墨画」で父を思うことにしよう。

写真は先日(12/11)母に会いに行ったときのスナップ。

2017_12_18

«長い長い一日