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2003年6月

2003年6月29日 (日)

続・カリフォルニアロール

ビバリーヒルトンホテルのビュッフェでまたまたカリフォルニアロールに遭遇。
ビュッフェの寿司コーナーで日本人のコックさん?が、にぎり寿司などを握っていた。が、なんとビニールの手袋をはめているではないか。
寿司はやはり素手で握らなければ微妙な飯のしめ具合を調整するのが大変だ。ピアノをあのビニール手袋をして弾けと言われているようなもんだ。あんなところを人に見せるぐらいなら厨房で握ってから客の前に出せばいいのに・・・・しかし外人には「ちゃんと手袋して握ってますよ」というアピールになるのかな?日本人の私にはわかりませぬ。
私の感想としてはビバリーヒルズというより美空びばりーヒルズっていう感じ。と日記には書いておこう。

2003年6月26日 (木)

カリフォルニアロール

カリフォルニアに来てカリフォルニアロールを食った。
日本人として新潟県人として海苔の上から飯を巻くなど邪道。
海苔がかわいそうだ、いや飯もかわいそうだ。
海苔は飯の上にあるべきものである。海苔巻きだって、おにぎりだって、お茶漬けだって、飯の上に海苔はあるのだ。と、思いつつ「結構いけるね」なんて心にもないことを言っている私、ジャパニーズ、イン、カリフォルニア。と日記には書いておこう。

2003年6月13日 (金)

その日私は・・・

次男が生まれた日(1979.5.9)の早朝、私と小学校に入学したばかりの長男、伊織は新宿下落合にある聖母病院の手術室前の廊下にいた。

早くしないと母体も危険という主治医の判断から、帝王切開の予定を朝一番に変更したのだった。

しばらく待つと、赤ん坊の泣き声らしきものが聞こえた。伊織と私は顔を見合わせ、「猫の声みたいだね」と笑った。

彼も弟か妹の誕生を心待ちにしていたのだ。もし女の子が生まれたら「美代子」、男の子が生まれたら「桂」という名前にしようと家族で決めていた。手術室の扉が開くと、私達は看護婦さんに抱かれた、まるでお人形さんのような小さな赤ん坊と対面した。

生まれたばかりの弟を見届けると、お兄ちゃんになった彼は、まだピカピカのランドセルをしょって小学校に向かった。

私はというと、その日は朝から体調がすぐれず、夜の仕事まで横になっていた。しばらくして気が付くとなんと熱が四十度近くあり体中に「水ほう」が出ているではないか。

とてもじゃないが仕事に行ける状態じゃない。大慌てで業界用語で言う「トラ」探しに電話をかけまくり、やっとの思いで見つけることが出来た。(トラ=エキストラ:代役)

原因は一週間前に伊織が、かかってきた水ぼうそうに感染したもので四十度近い熱は一週間も続いた。体中の「水ほう」が元に戻らなかったら、どうしようと悩んだことは忘れられない。

話は横道にそれるが、その病気になって初めて保険の重要性が身にしみた。我々自由業者は、自分の保障を自身で管理しなければならないのに、家族がありながら(二十五歳まで)他人ごとだと思っていたのだ。

やがて入院していた母子も無事退院。伊織は学校から帰ると毎日、桂を乳母車に乗せて散歩に行ってくれた。とにかく仲の良い兄弟で、私にも彼らと同じ年齢差の兄がいるが、あんなに仲良く遊んでもらった記憶はない。

その後、伊織は英国の大学を卒業後、台湾の国立大学大学院を修了、同国テレビ局を経て現在は台湾の大学で日本語ではなく英語の教鞭をとっている。彼は私の誇りである。ついでに桂も・・・・

2003年6月12日 (木)

喜んだのも束の間

先日(6/7)なかのZREO大ホールにて毎年恒例の「ジャズ・ヴォーカル・ジャンボリー」という、それはそれはヘンタイな、いやタイヘンな催しに家族ぐるみ、着ぐるみ、縫いぐるみ、借りは返さず、かり出され、あ~雁(かり)が飛んでゆく。なんて飛ばしてますが、一体何が大変なんでしょうか?

最近、私はごぶさたしてましたが40人の出演者、前半20人後半20人を2つのバンドで分担して伴奏を受け持つのです。

なんたって、お一人様一曲限りでの出演だから大変だ。ライブなら一曲目は指慣らし、二曲目は手慣らし、三曲目は足慣らしという風に序々に盛り上がっていくわけだが、一曲限りじゃそうはいかない。

一曲の中に速度変換(テンポチェンジ)・転調(キーチェンジ)・衣装チェンジ、下着チェンジ(なんてあったら面白いが)、天こ盛り盛りでステージに臨むわけだ。こっちだって20人の歌手の皆さんに粗相のないように伴奏しなければならない。

別の仕事ではあるが、やはり大勢の歌手が出るコンサートを頼まれたことがある。某ベテラン女性歌手の曲のテンポがちょっと速かったから大変。舞台の上で歌い終わるとマイクで「もうちょっと、ゆっくり歌いたかったな~」なんて客席に向かって言っている。

おしゃべりはつづき再び「やっぱり、もうちょっと、ゆっくり歌いたかったな~」と繰り返している。いや~参りました。「もう一度、遅いテンポでお歌いください」っと喉から手が出るほど、いや口からたこが出るほど言いたかったのは忘れられない。

もちろんその歌手の方、本番前にアルコールで体内消毒をなさっていたそうです。

話は戻りますが、一応無事?にコンサートも終わり、これまた恒例の打ち上げ会場にて今回は伴奏いたしませんでしたが(急に敬語になったりして)、ご自分でもピアノを弾き、歌う沢田靖司さんに「お前、上手くなった!」などとお褒めのお言葉を頂いて喜びつつ帰ってまいりました。

喜んだのも束の間、後日コンサートの証拠ビデオなるものを入手。検証の結果、私の弾くピアノに変化は認められないという結論に達した。あぁ~空しい。証拠が残る(音が後に残る)ものに、私は不向きだ。

2003年6月 8日 (日)

秘密文書公開(メンバーへの編曲状況報告書)その3

やはりタイトルに「LOVE」が付くといえば「I LOVE YOU」という曲をやりたい。
先回と同じコールポーターの作品(1943)が有名?だが全く無名な1923年の同名曲があったので今回はまず無名な方をさわやかボサノバで何とチェロをフューチャーして書いた。(歩ちゃん頑張ってネー)
更に有名な方を書き始めたが主題に入る前のバースという部分。これがまた昔から弦でやりたかった部分なのだ。こっちの方はソロ・バイオリンのフューチャーで書き進んでいる。
ちなみに「I LOVE YOU」は「ILOVE よう(洋)」という曲でもあるわけだから演奏の心構えとしては私を愛さなければなりませんぞ。 

2003年6月 4日 (水)

秘密文書公開(メンバーへの編曲状況報告書)その2

*** 03・5・23
もうすぐ(関西弁で)ポールこうた?(買った?)の「Love For Sale」が完成します。
注1)ポールこうた?=ポール・コーター=コール・ポーター で分かるかな?
注2)ポールの意味なんてとても説明出来ませんコチャン!
(私はうちの犬猫を叱るとき最後に何故かコチャン!をつけます。ですから動物になめられてます。ついでに顔もなめられてます。)
注3)コール・ポーターは同性愛者でもアリ、奥さんもアリ、でアリアリ?なんちゃって

さて新作の説明にはいります。
御テンポ、チュー(中)の御リズム、サンバ。
イントロ部分でみんなで「ウー」っていうところがありますが「ウー」っていった後に失神しないように。

あるパートがこの曲のメロディーを弾いている最中に他のパートが違う曲で乱入してくる、という仕組みになっております。
乱入曲はなぜか「エル・クンバンチェロ」です。
私、個人的に乱入は嫌いですが練乳は好きです。
私が幼少の頃、マミーがいちごにかけてくれた練乳。いちごを食べ終えたあとの皿に残った白い練乳を子供なりに気にしながらなナメナメしたあの頃が懐かしい。
今では犬猫がマメにナメナメうれしいな。

「Love For Sale」という曲は売春婦の歌で私の愛(カラダ)はいらんかねぇー?みたいな感じの曲ですから演奏の心構えとしては、そんなイヤラシー気持ちで弾かなくてはなりません

秘密文書公開(メンバーへの編曲状況報告書)その1

*** 03・5・10(7/29に向けての内部文書)
17年前の1986年に結婚式の仕事で弦カル+Alt Sax(宮野さん)のために書いたL-O-V-E」「I Just Called To Say I Love You」「Love Is A Many Splendored Thing」=慕情、この3曲にレパートリーを増やしていくんだけど、常々「慕情」は悪い曲じゃないが大げさ過ぎるところが好きじゃなかった。

この度「慕情2003」新アレンジが完成。
題して「バッハ管弦楽組曲第三番アリア風慕情」
または「G線上(じょう)のアリア上(じょう)の慕情(じょう)、じょうが3つでお嬢さん(3)」なんちゃってヤジオ・グーギャ・パツイチ・シーカマ(説明するまでもありませんが、おやじギャグ一発かまし)させていただきました。

只今「Like Someone In Love」という美しい曲を書いています。これまた21年前の1982年にキーボード・マガジン用に書いたものがベースになっていてますが、そもそも最初からピアノじゃなくて弦を想いうかべて書いたものです。いつかの日か弦でやりたかった曲です。それが皆さんの力を得て21年めにしてやっと実現できるのです。ほんとにアリガトー!グラニュートー!カリントー!(やじお・グーギャ・その2)

2003年6月 2日 (月)

ピアノ蓋工作殺人事件。私は狙われている

一歩間違えば私の手の指はつぶれ、腕は骨折、おまけにピアノ線が切れて飛んできて眼鏡をぶち破り、目に刺さり失明。もはやピアニストととしては再起不能。な~んて、なりかねない事が起こったからたまらない。

先日、光井章夫さん(Tp&Vo)の音楽活動五十周年記念コンサートが都内某区民ホールで行われた。この日は昼・夜と2回公演で午前中から舞台上で念入りなリハーサルをこなし本番に臨んだ。

ちなみに、この日のメンバーはベテランが勢揃い。光井さんの他に花岡詠二(クラリネット・アルトサックス)五十嵐明要(アルト サックス)芦田ヤスシ(テナー サックス)松岡優慈(トロンボーン)根市タカオ(ベース)八城邦義(ドラムス)そして私という総勢8人のバンドであった。

さて昼の部も中休み前の1曲「ストライク・アップ・ザ・バンド」まで進行し、クラリネットが軽快にソロを吹いている途中に前代未聞のアクシデントが起きた。

私が弾くベーゼンドルファーという(高級な)グランドピアノの開けてあった重厚な蓋が大音響と共に本体の上に外れ落ち、支え棒は折れてしまった。

普通、この規模のコンサートならばピアノの中にマイクを最低2本はセットするものだが不幸中の幸いで、この日はマイクを1本、それも弦が張られてる外側に近いところにセットしてあった。

このため落ちたピアノの蓋との接触を免れたのだ。もしマイクが通常の形でセットされていたら蓋の重みにマイクは押しつぶされ冗談じゃなく弦を切ってしまうことになっていたにちがいない。

この勢いで譜面は床に飛んでいったが、演奏中の譜面はなぜかピアノの上に乗ったままだった。やはり日頃の行いが良いせいか「不幸中の幸い」は重なり演奏中断には及ばなかった。

後に会館の人に聞いてびっくり、なんと我々の前にピアノを使った人が蓋をはずして使い、その後、本体と蓋の蝶つがいの心棒を入れないで帰ってしまったらしい。

さすが高級なピアノだけあって立て付けが良いために心棒が入ってなくても蓋を支えることが出来ていたわけだ。しかしながら私の迷演奏、いや名演奏にピアノの蓋、いや蝶つがいも耐えられなくなったのだろう。

それからというもの演奏場所に行って、まず何をするかというと、ピアノの蓋のチェックである。つまり蝶つがいの心棒がちゃんと入っているかをチェックするわけだ。もはや、調律の狂いなんか気にしてる場合じゃない。

2003年6月 1日 (日)

トンネルを抜けると・・・・

新潟日報(01.05.18)「晴雨計」というコラムに書いたものです。
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「トンネルを抜けると雪国ではなかった」 川端康成の小説とは逆に「トンネルを抜けると今までの雪景色がまるで嘘のような乾いた茶色の山肌と一面の落葉だった。」というのが私が18歳で上京した日の感想だ。

私は浜浦小学校と関屋中学校へ通ったのだが両校ともすぐ裏が海という環境にあり冬は日本海からの横殴りの雨あられに絶えて学校まで歩かなければならなかった。

山沿いに降る雪ならば水気も少なく防寒具に附いても掃えばさっと落ちるが海沿いの雪はたちが悪い。学校に着く頃にはびしょ濡れで体は冷えきっていた。教室の中も古い木造校舎のためガラス窓の隙間から外の雪が吹き込み寒かった。

それからストーブ当番なる者が石炭をくべて火をつけるわけだが、石炭が雪で濡れていたりするとなかなか火がつかず皆でいらいらすることも多かった。このように私にとって雪の思い出は良くない。

また私の家は新潟地震で傾いてしまったので土台上げをして直したのだが家の随所に隙間が増えてしまった。そのせいもあってか冬でも湿気が多く不快だった。
ストーブをたいてピアノの蓋を開けると鍵盤の上に水蒸気の膜ができてしまうほどだった。

除湿器をつけるとあっという間にタンクは満タンになり寝る時に布団に入ると湿っぽくて体温で暖まるまでずっと我慢しなければならなかった。

隣に住んでいた森さんという老夫婦は健康上の理由でもっと気候の温暖な静岡に越して行かれた。この時、子供心にそんな気候の土地で暮らせたらと羨ましく思ったのを覚えている。

上京して数日後、新潟から私愛用のピアノが届いたのだが中に張ってあるピアノ線の表面は長年の湿気で錆びていた。それまで楽器に対する感情など意識したことがなかったが初めて人間同様に可哀想だという気持ちになった。
誰にとっても湿気は不快なものだが私は人一倍嫌いなのである。

冒頭18歳の感想に戻るが三国トンネルを抜けたばかりの旧「特急とき号」の車窓に広がる景色への感動は忘れられない。

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両校ともすぐ裏が海という環境・・・・とありますが、某国に拉致されなくて良かったとつくづく思う。この頃よく一人で海に泳ぎに行ったものです。あ~~コワ

最近腹の立ったこと

ミュージシャンはギャラをもらう時、例えば「¥16,666」と書いてる領収書にサインをしても、受け取るのは「¥15,000」。つまり10%引かれていて、これを源泉徴収といいます。が、今年の四月から芸能法人の源泉徴収制度が廃止された。したがって私のところも小さいながら法人ですからこの改正にあてはまる訳だ。個人のミュージシャンは今まで通りだが私の場合は「¥16,666」の領収書にサインをしたら額面通り「¥16,666」もらわなければならない。

ある「S」というお店ではこの改正をよく把握できていなかったらしく私が四月前半に出演をしたとき源泉徴収分を引かれてしまった。慌てて連絡が入り四月後半の出演の時に徴収金を返すとのことだった。

これに反してある「B」というお店も四月の出演のとき同じく源泉徴収分を引かれてしまったので私の方から連絡すると、どうも態度がおかしい。つまり源泉徴収制度が廃止になったのだからお店が税務署に納めなくて済むようになり、こっちには今まで通りの金額を払えば良いと思っているらしかった。冗談じゃない、これでは私は10%分のギャラダウンではないか!

五月の出演日に四月に引かれた分を返してもらったのだが、そこの経理のオバサンまだ解ってない。返すお金なのに私に恵んでやるお金だと思ってる。

そのオバサンその日の共演者「M」さんの事務所の若いアシスタントにこう言ってるではないか「今まではうちが負担してきた源泉徴収がなくなったので話し合いなんですが・・・・・・」恩着せがましく「うちが負担」とは何事か!私は頭にきて「それは違う!それじゃギャラダウンしてくれっていう話じゃないの!」っていってやった。残念ながら事務所の女の子もよく意味が分かってないのだ。

オジサンは腹も出てるが腹も立っているのだ!と日記には書いておこう。

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