その日私は・・・
次男が生まれた日(1979.5.9)の早朝、私と小学校に入学したばかりの長男、伊織は新宿下落合にある聖母病院の手術室前の廊下にいた。
早くしないと母体も危険という主治医の判断から、帝王切開の予定を朝一番に変更したのだった。
しばらく待つと、赤ん坊の泣き声らしきものが聞こえた。伊織と私は顔を見合わせ、「猫の声みたいだね」と笑った。
彼も弟か妹の誕生を心待ちにしていたのだ。もし女の子が生まれたら「美代子」、男の子が生まれたら「桂」という名前にしようと家族で決めていた。手術室の扉が開くと、私達は看護婦さんに抱かれた、まるでお人形さんのような小さな赤ん坊と対面した。
生まれたばかりの弟を見届けると、お兄ちゃんになった彼は、まだピカピカのランドセルをしょって小学校に向かった。
私はというと、その日は朝から体調がすぐれず、夜の仕事まで横になっていた。しばらくして気が付くとなんと熱が四十度近くあり体中に「水ほう」が出ているではないか。
とてもじゃないが仕事に行ける状態じゃない。大慌てで業界用語で言う「トラ」探しに電話をかけまくり、やっとの思いで見つけることが出来た。(トラ=エキストラ:代役)
原因は一週間前に伊織が、かかってきた水ぼうそうに感染したもので四十度近い熱は一週間も続いた。体中の「水ほう」が元に戻らなかったら、どうしようと悩んだことは忘れられない。
話は横道にそれるが、その病気になって初めて保険の重要性が身にしみた。我々自由業者は、自分の保障を自身で管理しなければならないのに、家族がありながら(二十五歳まで)他人ごとだと思っていたのだ。
やがて入院していた母子も無事退院。伊織は学校から帰ると毎日、桂を乳母車に乗せて散歩に行ってくれた。とにかく仲の良い兄弟で、私にも彼らと同じ年齢差の兄がいるが、あんなに仲良く遊んでもらった記憶はない。
その後、伊織は英国の大学を卒業後、台湾の国立大学大学院を修了、同国テレビ局を経て現在は台湾の大学で日本語ではなく英語の教鞭をとっている。彼は私の誇りである。ついでに桂も・・・・
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