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2007年7月

2007年7月26日 (木)

五つの銅貨

数年振りに「五つの銅貨」を見た。この映画は私自身とオーバーラップするところが多い。
子供がポリオにかかる=私も生まれてまもなく軽度ではあったがポリオにかかった。
子供が病気になった事への親としての自責の思い=私がポリオを理由に運動会を休んだ時の母の涙。
演奏から遠ざかってしまったミュージシャンの複雑な思い=昔は毎日同じ店で演奏する仕事が多かったため、そのお店がクローズしてしまうとしばらく演奏する仕事に有り付けない事があった。そんな時は毎日、新聞の求人広告をながめは見るものの私に出来そうな仕事はそんなになかった記憶がある。
また楽器から遠ざかると当然楽器をあやつる能力が衰えてしまう。これを元に戻すのはリハビリのようなものだ。
ミュージシャンの友情=どこの国のミュージシャンであれ、トップミュージシャンは別にして生活は楽ではない。ラストシーンで復帰した主役にサッチモがお祝いに駆けつけるシーンなど嬉しいかぎりだ。

話は変わって私がいつも一緒に演奏している光井章夫さんが5月くらいに脳梗塞を患って左手左足が不自由になってしまった。
五つの銅貨の中で何度も繰り返される「インディアナ」、「ビル・ベイリー」、「君去りし後」などのメロディーは光井さんも良く演奏するナンバーなのでこれまた主人公と光井さんがオーバーラップしてしまった。この映画のラストシーンのように一日も早い復帰を願うばかりだ。

2007年7月23日 (月)

再びお葬式

4月に小川さん(ピアニスト)が亡くなり、つい最近はジェリー伊藤さん、そして今度はドラマーの五十嵐武要さん(77歳)が亡くなった。

今日の午前中、大田区にある臨海斎場でお焼香してきた。

ここ数年は会う機会がなかったが昔は一緒に仕事をさせてもらったりシャイニーストッキングスも手伝って頂いたことが何度かある。

二十年前位に仕事で弘前に行った時の話、まだミュージシャン用語を習得?してない私は五十嵐さんの「アー・マイナー」をすぐ認識できなかったのを思い出す。

もう手もかじかむ時期「弘前りんご祭り」の野外ステージの下で五十嵐さんと食べたおでんの味。

五十嵐さん曰く「アー・マイナー」すなわち「甘いなー」 合掌

2007年7月19日 (木)

サクラの子守歌

昨年の7月9日に愛犬サクラが死んで一年経った。

070719112201_1 七夕の夜にシャイニーストッキングスのライブがあったので「サクラの子守歌」を書いて演奏した。

2007年7月17日 (火)

女の子二人組

2005年の暮れ、シャイニー(ストッキングス)のメンバーの一人が息子と同世代の女の子二人組を連れて私のオフィスにやって来た。

一人はピアノ、もう一人はチェロを弾きながらコーラスするという珍しいユニットで、面倒見てくれる事務所を探してるとの事だった。
とにかくどんな演奏をするのか聴いてみないことには話が始まらないので聴かせてもらった。

彼女達の演奏は良く言えば可愛く元気が良いのだが作曲、アレンジ、歌い方等、音楽的な部全部とは言わないまでも気になる部分が多々あった。

すでに彼女達には千人近くのファンも付いているとのこと、このまま可愛いさ元気さを売りにして自分たち流にやっていけば良いのでは・・・・というのが私の感想であった。

つまりこれを一から面倒見るとなると私も相当な労力を費やさなければならないし私が手を入れる事によって「昔の方がのびのびしていて良かった」などという声も出てくると思うとなかなかやる気が起きなかった。

ところが一緒に聴いていた村上(京子)は長年に渡って多くのボーカリストを育てて来た経験から彼女たちの面倒見る価値はあるという判断をくだしたのである。

私はスタンダード・ナンバーのコーラス・アレンジを30年近く手がけてきたのだが、ここ数年は英語を分かってない自分が英語の歌を扱うという無責任さに嫌気がさして書いてなかった。しかし、最近はコーラスアレンジに対するポリシーをストリングス・アレンジに置き換えて発表する機会を年に数回作っている。

そこに日本語のオリジナルをコーラスする二人組がやって来たわけだから、日本人である私としては自信を持ってアレンジに取り組むことが出来た。

しかし彼女たちなりに出来上がっている音楽を私の音楽的価値観で変えていくことが果たして良いことなのかどうかと迷う日々が続いた。

ただ一つの救いは彼女たち自身が私のいわゆる手直しを喜んで受け入れてくれたことである。後から耳にした話だが、昔から彼女たちの演奏を聴いているファンの意見には案の定「昔の方が良かった」というものもチラホラあったようだ。それも致し方のないことである。

このように今まで感じたことのない複雑な気持ちでの作業であったが約一年半かけて自主制作盤一枚、メイジャーデビュー盤一枚のCDを送り出すに至った。

私は音楽を組み立てて行く過程で「一音一音、何故この音を選んだか」という理由を常に自問自答繰り返して書いているという非常に理屈っぽい人間である。しかし、これは音へのこだわりなのである。
もしこの作業中に音楽的価値観の違う他人から意見されたりすると音選びの勘が狂ってしまう。
それ故、複数の人の意見を取り入れながら作っていくのが苦手である。

音楽の世界にも物を生産するようにプロジェクトでスターを育て、売れなければ使い捨てて次なるスターを育てていくビジネスがある。
プロジェクトでの目標はやはり売れるという事で、私が大切にしたい音楽の本質よりもむしろファッション的な考えを持たなければならない。

よく飛び交う言葉は日本人の好きなジャンル分け、すなわちポップス、J-ポップ、フォーク、ロック、ヒップホップ、歌謡曲、流行歌、等々。
更にここに~風が付いてJ-ポップ風とかロック風という話になってくるわけだ。

このようにして音楽を創っていくことがプロフェッショナルだというのなら私の音楽の創り方は極めてアマチュアと言えるかもしれない。

2007年7月11日 (水)

ジェリー伊藤さん

私が長年音楽監督をやらせてもらったジェリー伊藤さん(79歳)が8日、肺炎のため米ロサンゼルスの自宅で亡くなったそうだ。

ジェリーさんは米ニューヨーク生まれでお父さんが戦前アメリカで活躍した舞踊家の伊藤道郎である。

本名はジェラルド・タメキチ・イトウといい自分のショーのトークでお客を笑わせるネタにもなっていた。ちなみに為吉というのはジェリーさんのお爺さん(伊藤為吉)の名前で東京オリンピックの下準備にも貢献した有名な建築家だとジェリーさんが話していた。

数年前脳梗塞になったのをきっかけにロスに帰ったがその後何度か来日してステージにも復帰していたようだった。

私が伴奏させてもらった男性ボーカリストの中でも両極端な笈田敏夫さんとジェリー伊藤さんだったが御両人とも逝かれてしまった。

アメリカに行ったときロスのジェリーさんを訪ねればよかったと後悔していますと日記には書いておこう。

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