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2011年8月

2011年8月25日 (木)

この人達がいて今の私がある

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2011年8月24日東芝病院にて。 上段の写真中央で車椅子に座ってるのが芦田ヤスシさん(T.Sax)中段、下段は河辺浩市さん(T.bone)、光井章夫(T.Pet)みな80歳前後のミュージシャン。皆さん私が所属し、世話になったバンドの親方衆である。

芦田さんとはここ数年会ってなかったのだが昔からは想像できない程痩せてしまった。でも仲間ってイイナ~・・・と日記には書いておこう。

2011年8月15日 (月)

終戦記念日

私の父は戦時中、海軍中尉で戦闘機のパイロット(飛行時間約二千時間)だった。

昭和20年1月まで上海龍華航空隊の零戦実戦部隊で多くの戦友が交戦で戦死したが幸い無事だった。

その後2月~4月中国青島航空隊で零戦はなくなり「白菊」という木製の単葉機で昼間は危険で飛べず夜間訓練だけ、ここで「特攻隊」に編入され、戦友が度々飛び立っていったが通信機等も不備ですべて消息不明であった。

更に5月~8月終戦まで韓国の浦項(ほこう)航空隊(現在ポハン)にいたのだが8月19日早朝、本隊の福岡に集結、直ちに解散「長期休暇」の名目で帰郷したとのこと。

即ち特攻隊に編入されていたわけだから、もし終戦が延びていたら私はこの世に存在しなかったのであります。それを思うと毎年8月15日がくる度、戦争が終わってくれてホントに良かった・・・・・と日記には書いておこう。

2011年8月 7日 (日)

楽譜というもの

昨日、上野ジャズインというコンサートに息子がビッグバンドと共演するということで本番を観に行ってきた。

私は自分でアレンジした曲を自分も参加して弾くことが多いので客席から聴くことがすくない。

今回4曲演奏した中の1曲だけ小川俊彦さんが亡くなる前に息子のためにアレンジしてくれた「Fly Me To The Moon」を入れたのだが、それを聴いていて今は亡き小川さんの書いた譜面が16人のメンバーによって音楽となって聴衆に届けられていると思うと涙が出てきた。

現代では作曲家とかアレンジャーは録音という手段で作品を残すことが出来るが古くは楽譜で残したものを演奏者の解釈や個性によって表現されるだけであった。

この違いは小説家が書いた小説を読み、読者がその活字、行間から様々な情景を思い浮かべたり、登場する人物の心を感じたりすることと、映画化された小説を観て映像と音、音楽すべてが同時に体感できてしまうことの違いに似ている。

クラッシックの作曲家やミュージカルの作曲家たちが書いた多くの曲が楽譜という音楽の活字を使って現代まで受け継がれ演奏されて来たことは作曲家にとって、想像もしなかった大きな喜びにちがいない。

ワタクシも死んだ後、私の譜面を演奏して喜んでくれる人がいたら本望・・・・と日記には書いておこう。

2011年8月 1日 (月)

室内バンド20回記念!

8年前の7月21日、即ち私ども銀婚式の日、その日限りのつもりでライブを行ったのだが気がつけば今回で20回目となってしまった。

ここ数年、降圧剤と年齢のせい?もあってか1時間も譜面を書いてると睡魔に襲われたり涙が出たりで仕事がはかどらず落ち込む日々を送っている。

今回20回目ということで私の音楽の原点でもある「サウンド・オブ・ミュージック」でも取り上げてみようとメドレーに取りかかったのだが気持ちとは裏腹に体がついて来ず途中で断念した。

しかし家内のお父さんである村上一徳・作曲の「熱風」は室内バンド・バージョンとして作ることが出来た。

室内バンドを始めた頃はストリングスの音色に自分でも感動を覚えたものだが回を重ねて来ると自分の耳も慣れて来て当たり前になってしまっている感があった。

ところが今回は違った。集中出来ない自分に鞭打って譜面を書かなければならない現在、本番前のリハでストリングスの音が出た途端、「続けてきて良かった」という幸福感を感じた。そんな話をライブ終了後に話したら息子が一言「歳だね」だって。

「なでしこジャパン」じゃないけれど一人じゃなくてチームで奏でるアンサンブルっていいね・・・・と日記には書いておこう。

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