平成の終わりとともに
母も95歳の生涯を閉じた。
3月27日に兄から電話があり入院中の母の様態が良くないとのこと。(誤嚥性肺炎を起こし入院中だった)
翌28日昼の予定をキャンセルしてもらって私の家族全員で立川の病院へ会いに行った。
看護師さんの話では午前中は反応も良かったらしいが我々が行ったときはあまりなかった。
この時母の手を握ったのが最後となったのでした。
さらに翌29日の深夜1時すぎ(30日)病院からの連絡で脈拍が落ちてきてるとのこと。
タクシーを飛ばして立川へ向かったが着いた頃にはもう脈はなかった。
4月2日兄の自宅にて身内だけで葬式をした。父が亡くなって15年、母も愛する父のもとへ旅立った。
母は大正12年関東大震災の10日程前の8月20日に東京本所で生まれた。
この時私の祖父と祖母は生き別れになり祖母はまだ生まれたばかりの母を連れて何日もかかって故郷の新潟まで戻ったと聞いている。
どうやら祖父母は駆け落ちして東京に住み、母が生まれたようだ。今回母の戸籍をさかのぼっても祖父の名前は出てこなかった。
その後実家で暮らした母が小学生の頃になって祖母は私の知る祖父と一緒になった。したがって私の血のつながった母方の祖父は知らないのだ。
近頃、自分の(血のつながった)子を殺す親や逆に親を殺す子のニュースを良く目にするが「血のつながり」とは一体何なんでしょうか。
私は男三人兄弟の末っ子ですが二番目の兄は私が生まれて間もなく胆管がんで(5歳で)亡くなりました。
そして私も右足がワクチンがまだ出来てなかった小児麻痺(ポリオ)にかかり手術を受けました。
手術の甲斐あって普通の小学校に入ることが出来、入学式の日に泣いて喜んでくれた母の顔は今も忘れられない。
母にとって自分の生んだ子が立て続けに小児がんや小児麻痺になったら気が狂いそうになっただろうに気丈に兄と私を育ててくれことに感謝してもしきれない思いだ。
昔から母は「私たちは先にいなくなるけど残った二人の兄弟だけは仲良くしてね。ただそれだけが願いだ」と言ってた。そんな親の気持ちをひしひしと感じる今日この頃です・・・・・・・と日記には書いておこう。
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