エーッセ、エーッセ、エッセー、ほいのさっさ!

2015年5月 2日 (土)

トンネルを抜けると雪国ではなかった

2001年5月18日付の新潟日報紙に書いた記事から抜粋。

川端康成の小説とは逆に、「トンネルを抜けると、今までの雪景色がまるで嘘のような、乾いた茶色の山肌と一面の落葉だった」というのが、十八歳で上京した日の感想だ。(中略)

ストーブをたいてピアノのふたを開けると、鍵盤の上に水蒸気の膜ができてしまうほどだった。

除湿機のタンクは、あっという間に満タンになり、寝るときに布団に入ると、湿っぽくて体温で暖まるまで我慢しなければならなかった。(中略)

上京して数日後、新潟から愛用のピアノが届いたのだが、中に張ってあるピアノ線の表面は、長年の湿気でさびていた。

それまで楽器に対する感情など意識したことがなかったが、初めて人間同様に可哀そうだという気持ちになった。(後略)

このピアノは私が中学の終わりころに親から買ってもらったものだが現在も近所のスタジオで生きてるのだ。

先日久しぶりにこのピアノに会いに行ってきたのだが象牙の鍵盤は人工のものに変わっていたがいい音を響かせてくれていた。

このピアノがあって今の私があるのだ。与えてくれた親に感謝。そして何十年もメンテナンスを怠らず管理してくれてるKonita君に感謝。

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2012年12月 1日 (土)

クシャミと下ネタ

風邪をひくとクシャミをします。花粉が飛ぶとクシャミをします。私の場合、前に見たエッチな動画のワンシーンを思い出した時にもクシャミをします。
今朝犬の散歩をしてる時、急に思い出してクシャミが出ました。
鼻水が出たので左手で二匹の綱を持って右手で鼻をかまなければなりません。片手で鼻をかむのは片手でパンツをはく感じで気持ち悪いものです。
鼻といえば鼻の部分がもっこり膨らんでるちょっと高価なマスクを見ると昔痔の手術で入院した時にはかされた丁字帯を思い出します。

2012年9月12日 (水)

落語とジャズ

先日(9/9)古今亭志ん彌師匠の司会進行で古今亭志ん公さんの落語、私たち(小林桂+小林洋)、もちろん志ん彌師匠の落語というコラボ・ライブが行われた。

寄席まで落語を聞きに行くことはあってもまさか同じステージで噺家さんとトークを交えながらライブをするなど私にとっては嬉しいというかちょっと緊張なんかしたりして・・・・

最終的には楽しく仕事を終えることができた。師匠がステージ(高座)に上がるまで「何をやろうか」「まぁ上がってから様子見て決めよう」とぼやいていたのが印象的だった。(ジャズマンと同じ)

師匠曰くジャズは気分で(アドリブを)伸ばしたり縮めたり出来るから良いけど落語は途中で止めるわけにいかないから困るとのこと。(なるほど)

しかし音楽の場合、落語の下げのようにプツンと終われない。(羨ましい)

某レコード会社、落語担当のディレクターが「落語ってなんで噺の終わり方が尻切れトンボみたいに終わるんですかネ~」(絶望的)

また落語のマクラから噺に入った瞬間とエロル・ガーナーの何が始まるかわからないイントロからテーマに入った瞬間の気持ち良さとが同じに感じるのは私だけ?

やっぱり落語はいいね。芸のない芸人(を名乗ってる者)が多い中、話芸で観衆を引きつけられる本当の芸人。私は心から尊敬します。

2009年10月13日 (火)

最近のお客様事情

先日オフィスにある女性からFAXが届いた。

女性「小林さんのピアノのファンの一人です。厚かましいお願いですが小林先生のピアノのCDが欲しいのです。一つでいいのですが先生のお勧めのCDをお願い致します。」(注)先生といわれても私の弟子ではありません。

私「残念ながら私のピアノのCDはこの世に存在しておりません。ただし息子(小林桂)のボーカルの伴奏で弾いてるものはいくつかあります。」

女性「ピアノだけのCDが無く残念です。世界的ジャズ・ボーカリスト小林桂さんが息子さんと昨日○○さんから伺いびっくりしました。そのCDをお願いできますか」

・・・・だと。

また先日あるジャズフェスで息子以外のバンドに参加。演奏が終わりステージを降りてくると一人の女性がやって来て「少しお話して良いですか?」とのこと。

私「小噺じゃなくてお話ですか?」・・・・急ぐ旅でもないので「ハイ!何ざんしょ」

女性「ボーカルの小林桂さんとよく一緒に演奏なさってますよね。今日、聴かせて頂きステキなピアノだったので小林洋さんのピアノのCDとかDVDが欲しくなりましたが、ありますか?」

私「ありません」「ステキなピアノは世界のヤマハです」

女性「まぁー!もったいない!」「じゃあライブとかで聴きに行くだけですね」

私「そうねー、息子のCDでは伴奏で弾いてるんだけどね」

女性「エー、小林洋さんて小林桂さんのお父さんなんですか?」

・・・・・だと。

2008年9月 8日 (月)

評論家

「ザ・シャイニー・ストッキングスについては、それほどよく分からない。ハーモニーについては悪くないと思うが、コーラス・アレンジがひどすぎるのではないか。妙な細工をしすぎる。歌が分からない人がやっているんじゃないか、それともわざとヘンなアレンジでグループを困らせているんじゃないかと邪推したくなるほどである。」(84・3)

「シャイニーは例によって例のごとくで、コーラスとしてはいまひとつパンチがない。面白さに欠ける。コーラス・アレンジがよくないのだとぼくは思う。アレンジャーを思いきって変えることをおすすめしたい。」(84・11)

この文は私の会った事もない批評家T氏(故人)が1986年に某有名出版社から出したエッセイの中で書かかれたもので、念を押すように二度もシャイニーというかワタクシの事が出てくる。

どうでも良いけど(良くないけど)、まずザ・シャイニーストッキングスは私のグループで私がすべてを作ってるという事を知らずに(T氏もよく分からないと書いておられますが)評論しているところが滑稽。

この本が全国の本屋さんに並んで素直な音楽ファンに先入観を植え付けられ、一冊売れるごとにT氏に印税が入ったかと思うと誠に気分が悪い。

私だけでなくいろんなミュージシャンの批評を書いてある中から見つけ出したものですが、褒めてるミュージシャンも当然あって逆に業界を知ってる私から見ると知り合いのミュージシャンとの癒着としか思えない箇所が多々ある。(ご本人は評論家たるもの本質を見極め私情に流されてはいけないみたいな事はいっておられますが)

先日トロンボーンの河辺浩市さん(81歳)が楽器を持って私が出演中のライブハウスに遊びに来て下さった。一緒に演奏して休憩時間となると恒例(高齢?)の昔の話に花が咲くわけだがその日はピアニストY氏(故人)の話をしてくれた。ちなみにY氏は河辺さんより後輩のジャズピアニストだが映画音楽やCMを多く手がけた有名なお方。

しかし河辺さん曰く「あんな嫌な奴はいない」とのこと。理由を尋ねると、もう決まってるギャラをメンバーに渡す際にわざわざ現金の束を持ってきて、みんなの見てる前で「さあーて、いくら欲しい?」などといって配ったそうだ。さすがの河辺さんも見かねて怒ったそうだ。

実はこのY氏、前述の評論家T氏が大変かっていて、シャイニーストッキングスがデビューした同じ時期にやはり女性3人のコーラスをプロデュースしていたのである。そのグループはシャイニーとは全く違う、どちらかというとソウルっぽい感じのスタイルだった。

当時私たちが出演しているライブハウスの客席の隅に時折なぜかY氏がいたのを記憶している。T氏もY氏ももうこの世にはいないので真実は分からないがT氏のアレンジャー批判にはY氏の意見も関係してるのではないかと邪推したくなるほどである。(T氏の文から引用)

2008年4月14日 (月)

続・一週間

2008年4月 6日 (日)

職業音楽家

ミュージシャンがギャラを得るためにはお客さんが来てくれなければ話しにならないことは重々承知しているのだがそのお客さんが求めているミュージシャン像は千差万別。お客さんの求めている音楽やお客さんへの接し方などすべてを満たそうとすれば恐らく我々は人前で演奏する事をやめるしかなくなってしまう。

現にそれだけが理由ではないと思うが人前で演奏するのをやめたギタリストがいる。しかし彼の演奏の素晴らしさは神がかっていると言っても過言ではない。昔彼と一緒に演奏していた頃、私が一番感じていた事は音を出す事への丁寧さである。

そんな彼が「自分はギターを教える事が職業であり人前で演奏する事は職業ではない」と言っていたのが印象的だ。

話変わって先日とあるライブハウスにてすべての演奏が終了し休んでいると初老男性客が帰りがけにやって来て共演した女性ボーカリストに向かって「君ネ・・・」っとはじまった。

私もわきでその話を聞いていたが何が言いたいんだかサッパリ分からなかった。恐らく彼女も傷ついたか腹を立てたか悩んだか、とにかく良い気分では帰れなかったにちがいない。お客さんの意見を聞くことも一理あるが自分のポリシーを貫くことも大切でありギャラを頂いて演奏してるかぎりこの葛藤は続くのである。

2008年2月23日 (土)

敬称略

ステージでリーダーが自分のグループのメンバーを紹介するのに敬称はつけない。

しかし他所(よそ)のバンドにゲストで参加する場合にそのバンド・メンバーを紹介するならば日本人なんだから敬称をつけるべきだ。

よく欧米方式で「オン、ピアノ~、コバヤシ・ヨ~~ウ!」なんて語尾を伸ばしてやる人もいるけどプロレスやるわけじゃないんだからいい加減にしてほしいもんだ。

昔、大先輩のシンガー故笈田敏夫さんとショーの仕事をしたときのこと。普段は私の事を「おい、ヨー」などと呼び捨てにしてる彼がステージの上で「私の伴奏をしてくれるのは小林洋さんです」と紹介してくれた。「洋さん」の「さん」はなくてもいいのにと思った事を今でも忘れない。

これまた古い話だが私のグループ「ザ・シャイニーストッキングス」にまたまた大先輩のクラリネット奏者・藤家虹二さんがゲストで共演したときも同様に丁寧に紹介してくださった。(普段からは想像もできない・・・?)

比較的新しい話で私が音楽監督を務める大きなコンサートがありゲスト某女性ヴァイオリン奏者が言わなくてもいいのにステージの途中で敬称略で語尾の伸びた紹介をした。

私のユニットの伴奏で数曲弾きに来た人がまるで自分がリーダーの如く紹介するのは如何な物かな。

また恐らく緊張してるであろうボーカルの娘の伴奏をするときも時々同じような場面に遭遇しますがもう何も言いません。(感覚、価値観、感性・・・の違い)

ただ、こっちが「キーは?」と訊いたときに「Bフラ」って言うのはやめてほしい。ボウフラじゃないんだからちゃんと「Bフラット」と言ってほしいもんだ。

実をいうと私はこの件に関してちょっとうるさい人間であります。

2007年11月10日 (土)

ピアノの椅子

ピアノの椅子の高さは演奏者によって違いがある。
最近読んだクラシック・ピアノ奏法の本で低い位置に座る利点が書かれていたが私の大好きなエロル・ガーナーというジャズ・ピアニストは椅子の上に更に電話帳を置いて高くして演奏していた。
映像を見るとほとんど立ってピアノを弾いてる感じでゴッツイ指が鍵盤に向かって垂直に突き刺さるような弾き方なのだが素晴らしい音なのである。

また、あるピアノレッスンのテレビ番組で中村紘子さんは生徒に椅子を高くしてオーケストラに負けない大きな音を出すよう指示していた。

私は正式にクラシックピアノを習った事がないのでピアノを弾くというよりは叩いているようなものだが、昔ピアノの椅子の高さを一番高くして弾いていた時期がある。

あるお店で私が出演した翌日来たピアニストが椅子の高さを見て「昨日は小林洋さんだったでしょう」と言ったという話を聞いたこともある。

前述の本を読んだ訳ではないのだがここ数年は一番低くして弾いている。これといった理由はないのだが自分にとって無理な力が入らなくて良い感じがするのである。低くすることにより必然的に背筋を伸ばす姿勢になるのかもしれない。

コンサート等で一台のピアノを複数のピアニストで使う場合、椅子の高さを高くして弾く人もいれば現在の私のように一番低くして弾く人もいるので各々弾くときにセッティングを変えることになる。

私が弾いている店に遊びに来た仲間の女性ピアニストが数曲弾く事になった。その当時、私は椅子を一番高くして弾いていたのだが彼女は一番低くして弾く人だったので「椅子を下げていいですか。私、椅子低いんです。」といってセッティングしていた。私よりも先輩ピアニストなのに礼儀正しい人だと感じた。

また、あるコンサートで前半を担当する私のバンドが先にリハーサルをした後、後半を担当するバンドがリハーサルをして本番は再び私のバンドからスタートする機会があった。
これまた同様に私は椅子が高く、後半担当のバンドの友人であるピアニストは椅子が低かったのである。彼も本番前に私のところにやってきて「ピアノの椅子低くしたままでゴメン」といっていた。私のピアノでもないのに本当に礼儀正しい人達だ。

椅子を低くしている最近、大きなコンサートで私達が先にリハーサルをした後、ビッグバンドがリハーサルして本番は私達からスタートという流れでビッグバンドの先輩ピアニストから私宛に「ピアノの椅子を少し高くしたままですみません」というメッセージがスタッフを通じて届いた。

私も同じ立場になる事がよくあるので極力椅子の高さを戻すように心がけている。たかが椅子の高さの話であるが他人のセッティングを変えるわけだからマナーであるしピアノを道具と捉えるか自分の心を表現してくれる大切な楽器と捉えるかの違いといっても過言ではない。

クラシック・ピアノを長年習って音大を出たような人でも以外に無神経な人の多いこと。しかし、この様な話は説教じみてとられたらバカバカしいので生徒や若いミュージシャンにもしないことにしている。要するにデリカシーの問題なのだ。

2007年11月 1日 (木)

理系?文系?

ピアノを弾いてるとき、譜面を書いてるとき、頭の中は理系か文系かなどという事を考える。

特にアドリブをやってる時は自由なスペースがあり発想というものが必要不可欠である。

頭の中に絵や景色、色、言葉などが浮かんで出た音、幾何学的な図形を意識したり同じ和音に適応したパッセージを意識的に当てはめて音を出したり、人によっていろんな要素が絡み合って演奏されるのである。

もちろん考えてるだけではなく人間である以上、ここに感情移入がないとつまらない。何はどうあれ魂を込めるわけだ(口で言うは易しいが)。

私は音楽的基礎教育を受けたわけではないので聴いた音楽をすぐ覚えて弾いたり書いたりする事が苦手である。

だから音楽的構造をしっかり自分の中で整理して覚えたり演奏しないと不安なのである。悪く言えば「理屈っぽい」良く言えば「こだわりを持った」タイプといえる。

しかし時として理屈には合わないものにも遭遇する事がある。
そういう場合は屁を一発かまして「屁理屈」をつけて乗り切るわけである。

本人も良く意味が分からなくなってきてしまったのでこの話はもう「一巻の終わり」。