★・・・と日記には書いておこう

2023年6月10日 (土)

時間が解決する

今度の7月29日に「ザ・室内バンド結成20周年記念ライブ」をする。

そもそも2003年7月29日「銀婚式の記念ライブ」としてスタート、10年続けたが一旦活動休止、更に今回10年経って縮小編成で気まぐれではありますが「サファイア婚式の記念ライブ」をすることに。

結婚する前というか入籍出来る前は私と家内と伊織の3人で小さなアパートで生活をしていた。

晴れて(天気も晴れてたが)1978年7月29日に中野区役所に結婚届を出しに行った日のことは忘れられない。

結婚して何年経ったかという事にこだわる理由は私が両親や兄を裏切って特に母を大きく傷つけ生活を始めたことにあります。

「時間が解決する」と信じて生活してきましたから結婚〇〇年は常に忘れられないのです。

私の母は大正12年8月20日東京本所の生まれ。12日後の9月1日に起きた関東大震災で祖母と一緒に焼け出されます。

祖母は新潟で大勢の使用人をかかえる養蚕業家の娘でしたが技師として働きに来ていた人と駆け落ちして東京に。

そして生まれたのが私の母です。しかし夫婦仲は上手くいってなかったらしい事もあって震災直後、祖母は生まれたばかりの母と一緒に何日もかかって新潟に戻って来たという話です。

母は祖母と実家で一緒に暮らしていましたがある日新しいお父さんがやってきて3人で暮らすことに。母はその新しいお父さんが嫌で何度も一人で実家に戻ろうとしたそうです。

この新しいお父さんというのが私の知ってる祖父になる訳ですが私とは血がつながっていません。

今思えば母は子供の時のこの体験があるため血のつながりという事に神経質だったのだと思う。

私が家内と伊織と一緒に生活を始めたことに母は自分と伊織が重ね合わさってノイローゼになったと父から聞いた。

そんな母を気遣ってか父は母と共に地球の反対側の国ペルーの日本人学校の校長として赴任することに。

数年後帰国した父も母も異国で生活してみて気持ちも変わっていたように思う。

時間の経過とともに母とも仲良くなれ「時間が解決する」を実感してるのです。

2003年の銀婚式記念ライブ、そして同年12月にはホールコンサートを行い両親も来てくれましたがコンサートの10日後(2003年12月21日)に父は亡くなりました・・・・と日記には書いておこう。

2021年11月 3日 (水)

枯葉よ~小林よ~(笑)

今朝、毎日の犬散歩で行く公園で枯葉がパラパラと落ちてきた。

家内と歩きながら日本語の歌詞を知らないので♫枯葉よ~枯葉よ~枯葉よ~とずっと繰り返し歌うのでした(笑)

昔こんな枯葉を録音したのを思い出した。

今は燃えカスとなってしまったがこの時代はアレンジに燃えておりました••••と日記には書いておこう。

写真はまだ花子が元気で二匹で公園に通ってた時のもの。

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2020年7月 3日 (金)

息子とわたし

探し物をしてたら2000年2月13日発行のサンデー毎日が出てきた。

20年経った雑誌の紙は色あせてしまってるが「親と子の情景」というページに写真が載っていた。

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自分が出たコンサートや観に行ったパンフレット、自分の記事が掲載された雑誌などはあまり取っておかないほうだ。

しかし、こうやって突然目にすると懐かしいもんだ・・・・・と日記には書いておこう。

2020年3月12日 (木)

思い違い

昔、渋谷の全線座でエディット・ピアフの白黒伝記映画を観たと思っていたらこの映画「エディット・ピアフ/愛の賛歌」は2007年の作品でカラー。

そして全線座は1977年に閉館廃業していた。つまり白黒でもなければ観た映画館も思い違いだった。

実は数日前にジュディ・ガーランドの伝記映画「ジュディ/虹の彼方に」を観てピアフの映画と重なる感じがしたのだ。

エディット・ピアフ1963年10/10享年47歳、ジュディ・ガーランド1969年6/22享年47歳。

二人の偉大な歌手が偶然にも47年という短い生涯だったことに驚いた・・・・と日記には書いておこう。

2020年3月 2日 (月)

失神!

そして顔面から転倒、そして救急車で病院へ搬送。

すべて生まれて初めての体験だった。

2020年2月21日の夜、家族でファミレスにて遅い夕食。

食事をしながらワイン500ml弱を飲んで帰宅、ゴミ出しとかテレビを見ながらアイスを

食べたりしてパジャマに着替えて寝ようと寝室に向かう廊下で気を失った。

家族の話ではドスンという凄い音がして様子を見に来ると私が打つ無背に倒れていて

廊下は血の海になっていたそうだ。幸い眼鏡で目を傷めることなく壊れただけで済んだ。

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どうやら自力でベッドまで歩いたらしいが気が付くと救急隊の人が何か問いかけてる。

その後、救急隊の人に支えられて救急車の担架に。

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写真は救急車の中でオレンジ色の毛布に包まれた私です。

検査の結果、おでこと鼻と目の下の3か所の骨折はあるものの

脳は大丈夫だった。正に不幸中の幸い!

いや~歳と共にいろんな事が起きるもんだ・・・・・・と日記には書いておこう。

2019年9月20日 (金)

足元を見られる

先日とあるコンサートの終了後、迎えの車を待っていると中年の女性客が近寄ってきて「質問して良いですか」と訊かれた。

「ジャズピアノを弾く方は右のペダルを踏む時、かかとを床につけないで足を浮かせて踏むのですか?」

実はこのことで数年前から右足の股関節が痛く悩んでいるところだった。

私は生まれて間もなく右足が小児麻痺にかかり手術を受けた。その後遺症で右足親指が不自由でかかとを床につけて踏むことは出来ないのである。

長年その状態でピアノを弾いてきたことで股関節が悲鳴を上げたのかもしれない・・・・・という話をお客さんには説明は出来ないので「単なる足癖です」とお茶を濁しておいた。

そんな訳で最近はピアノの椅子を目いっぱい高くして右足をぶらぶらさせて足の負担を軽くしてペダルを踏むようにしている。

この事によって鍵盤の位置が下になるのでタッチの上では困ったことであります。(エロル ガーナーじゃあるまいし)

しかし足元まで見られているとはビックリ・・・・・と日記には書いておこう。

2019年5月29日 (水)

平成の終わりとともに

母も95歳の生涯を閉じた。

3月27日に兄から電話があり入院中の母の様態が良くないとのこと。(誤嚥性肺炎を起こし入院中だった)

翌28日昼の予定をキャンセルしてもらって私の家族全員で立川の病院へ会いに行った。

看護師さんの話では午前中は反応も良かったらしいが我々が行ったときはあまりなかった。

この時母の手を握ったのが最後となったのでした。

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さらに翌29日の深夜1時すぎ(30日)病院からの連絡で脈拍が落ちてきてるとのこと。

タクシーを飛ばして立川へ向かったが着いた頃にはもう脈はなかった。

4月2日兄の自宅にて身内だけで葬式をした。父が亡くなって15年、母も愛する父のもとへ旅立った。

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母は大正12年関東大震災の10日程前の8月20日に東京本所で生まれた。

この時私の祖父と祖母は生き別れになり祖母はまだ生まれたばかりの母を連れて何日もかかって故郷の新潟まで戻ったと聞いている。

どうやら祖父母は駆け落ちして東京に住み、母が生まれたようだ。今回母の戸籍をさかのぼっても祖父の名前は出てこなかった。

その後実家で暮らした母が小学生の頃になって祖母は私の知る祖父と一緒になった。したがって私の血のつながった母方の祖父は知らないのだ。

近頃、自分の(血のつながった)子を殺す親や逆に親を殺す子のニュースを良く目にするが「血のつながり」とは一体何なんでしょうか。

私は男三人兄弟の末っ子ですが二番目の兄は私が生まれて間もなく胆管がんで(5歳で)亡くなりました。

そして私も右足がワクチンがまだ出来てなかった小児麻痺(ポリオ)にかかり手術を受けました。

手術の甲斐あって普通の小学校に入ることが出来、入学式の日に泣いて喜んでくれた母の顔は今も忘れられない。

母にとって自分の生んだ子が立て続けに小児がんや小児麻痺になったら気が狂いそうになっただろうに気丈に兄と私を育ててくれことに感謝してもしきれない思いだ。

昔から母は「私たちは先にいなくなるけど残った二人の兄弟だけは仲良くしてね。ただそれだけが願いだ」と言ってた。そんな親の気持ちをひしひしと感じる今日この頃です・・・・・・・と日記には書いておこう。

2018年11月 4日 (日)

多かれ少なかれ

歳と共に誰だって物忘れは増えるものだ。

昨日の記憶が薄れてきた家内、場所の記憶も薄れている母、日本語の単語が出てこない私。Img_01931

毎度おなじみ我が家で咲いた花を母の部屋に飾った。

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母のバッグの中からしわくちゃになった看護学校の卒業証書が出てきた。(昭和16年は太平洋戦争が始まった年)

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母の生まれた大正12年の8月20日から12日後の9月1日関東大震災は起こった!そして母の両親は生き別れになり私の祖父は行方不明に。

大正、昭和、平成と生きた母は現在95歳、来年96歳の誕生日は新元号で迎える・・・と日記には書いておこう。

2018年4月30日 (月)

誕生日といえば

この日に生んでくれた母に感謝を伝えに行くのが恒例。

母も94歳、14年前に父が亡くなったときには「私もすぐお父さんのところに行くわ」と言ってたわりには大病もせず元気。

小さなバースデー・ケーキを買って母のもとへ。もちろんケーキは私のためではなく母への感謝のしるし。母、家内、私、3人で美味しく頂いた。

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今日も家内が摘んでくれた我が家で咲いた白いバラたちを部屋に飾った。

殺風景な母の部屋に花を飾ると母もとても癒されてるようだ。

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あと何度こうやって母と誕生日を祝えるか分からないが私も死ぬまで生きよう・・・・と日記には書いておこう。

2018年2月 8日 (木)

あれから40年

大好きな綾小路きみまろさんのフレーズだが今年の7月29日で私たちも入籍40年。

結婚25年が銀婚式だったので今回40年目を調べたらルビー婚だった。

ルビーなんて買うお金もないのでルビーという美しいスタンダード曲をレパートリーに入れようとコードチェンジを検討中だ。

40年間家内と出かけるときはいつも腕を組んで歩いてきたが最近気がつくと手をつないで歩いてることが多くなった。

もうちょっとすると気がついたらおんぶしてたりして(笑)・・・・・・と日記には書いておこう。

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